2010年 02月 19日
「心身ともに健全であることを祈りなさい」
個人的にお世話になっているSさんが、
(日本語対訳つきで)英語のブログを書いていらっしゃいました。
公にできないことが残念ですが、内容が素晴らしく、ここ数日少しずつ拝見しています。
その記事の中で、私なりに「そうなんだ!」と納得の一文がありました。
この一文に出会ったことで、今までの”なにか歯切れの悪い思い”から
脱出できる”晴れ晴れ”とした気持ちになれました。
Sさんへの感謝をこめて、
私のブログを通じて、同じ解放感を持ってくださるだろう方へ・・・。
神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。
********************
「健全な身体に健全な精神」という言葉があります。
これは、ローマのユウェナリウス(60-136年)の風刺詩の中にある言葉です。
英国のジョン・ロック(1632-1704年)が、原文のラテン語を英訳して、
彼の教育論の冒頭に“A sound mind in a sound body ” と書いたことから、
後世の人はこれを、「健全な精神は健全な肉体に宿る」と解釈し、
運動会などで、「体を鍛えれば精神も健全となる」という意味の訓示として使われることが多くなりました。
あるいは、これとは逆の意味で、「身体だけ鍛えても、勉強しないとだめだ」というふうに理解して、
運動ばかりしている学生を諌める言葉として使われることもあります。
しかし、本来、ユウェナリウスが意味したことは、そうではありませんでした。
<心身ともに健全であれ>
彼の諷刺詩を短く意訳すると、次のようなものです。
「人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。
例えば金持ちになること。例えば長生き。例えば美貌。
しかし、これらは手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。
金持ちになっても泥棒の心配が増えるし、長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。
美貌のために不運を呼び込んだ例は世に溢れている。
神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。
願うなら『健全な身体に健全な精神』、この程度にしておきなさい。
これなら、それが手に入ったことによって不幸になることはない。」
つまり、ユウェナリウスは「健全な身体に健全な精神が宿る」と言ったわけではなく、
「心身ともに健全であることを祈りなさい」と言ったわけです。
(日本語対訳つきで)英語のブログを書いていらっしゃいました。
公にできないことが残念ですが、内容が素晴らしく、ここ数日少しずつ拝見しています。
その記事の中で、私なりに「そうなんだ!」と納得の一文がありました。
この一文に出会ったことで、今までの”なにか歯切れの悪い思い”から
脱出できる”晴れ晴れ”とした気持ちになれました。
Sさんへの感謝をこめて、
私のブログを通じて、同じ解放感を持ってくださるだろう方へ・・・。
神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。
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「健全な身体に健全な精神」という言葉があります。
これは、ローマのユウェナリウス(60-136年)の風刺詩の中にある言葉です。
英国のジョン・ロック(1632-1704年)が、原文のラテン語を英訳して、
彼の教育論の冒頭に“A sound mind in a sound body ” と書いたことから、
後世の人はこれを、「健全な精神は健全な肉体に宿る」と解釈し、
運動会などで、「体を鍛えれば精神も健全となる」という意味の訓示として使われることが多くなりました。
あるいは、これとは逆の意味で、「身体だけ鍛えても、勉強しないとだめだ」というふうに理解して、
運動ばかりしている学生を諌める言葉として使われることもあります。
しかし、本来、ユウェナリウスが意味したことは、そうではありませんでした。
<心身ともに健全であれ>
彼の諷刺詩を短く意訳すると、次のようなものです。
「人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。
例えば金持ちになること。例えば長生き。例えば美貌。
しかし、これらは手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。
金持ちになっても泥棒の心配が増えるし、長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。
美貌のために不運を呼び込んだ例は世に溢れている。
神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。
願うなら『健全な身体に健全な精神』、この程度にしておきなさい。
これなら、それが手に入ったことによって不幸になることはない。」
つまり、ユウェナリウスは「健全な身体に健全な精神が宿る」と言ったわけではなく、
「心身ともに健全であることを祈りなさい」と言ったわけです。
by rolferK
| 2010-02-19 22:45
| 健康関連