2005年 07月 03日
3.1415926535897・・・
3.1415926535897・・・・蝶々のメロディーにあわせると浮かんでくる円周率です。
高校生の時、親もとを離れて寮生活をしていたときに、何かの余興のために後15けたほど
先まで歌えるようにしたのです。その名残が、うろ覚えながら残っています。
なんの役にもたたないのに、私の記憶のある容積を占めているわけです。
きっとこんな風に、あとどれほどの人生を生きる中で「捨てる力」が弱くなって、しょ~~も
ない事柄ばかりを記憶していたりするのかしら・・・と思うと、「老いる」ということの悲しさを
実感できる気がします。
突然こんなことを思い出したのも、さっき「新記録・円周率8万3431けた暗唱」という記事を
目にしたからです。約14時間ほどもかけて、自己記録を大幅に更新されたそうですから
それ自体は大変な努力の成果です。おめでとうございます。
むか~~し、何かで読んだのですが、
痴呆(認知症)のご夫人が、突然に「オゴタイ・チャガタイ・イル・キプチャク・・・」と繰り返されたのを家人の方が不思議に思われて、よくよく調べてみたら、そのご夫人が女学生の頃に歴史で習った地名か何からしかった。70年以上もまえの記憶が、家族の名前も忘れている老婆の記憶に焼きついている・・といったような内容の記事を見たことを、これまた私というおばさんが日常のもっと大切なことを忘れているにも関わらず、覚えているのです。
何が言いたいんだい?!といえば、基本的に長く留まる記憶を獲得する時期というものが,
ありそうだな~~ということです。
俗にいうところの「就学期」というのが、主にその時期にあたるんじゃないでしょうか。
これまた昔々の江戸のころに、お武家さんのお子様や寺子屋の子供達が「諳んじた」だろう
漢文や論語のむずかしい一節は、きっと彼らが大人になった時に、今日の私のように忽然と
脳裏から湧き出て、そして人生経験と融合する機会を得ていたのではないかしら・・・と
思ったのです。
だとすれば、「子供にそんな難しいことを覚えさせなくても・・・」という大人心は、かえって子供
の成長の邪魔になるかもしれませんね。
そういえば、「正念」という仏教用語(四諦八正道の7番目)を現代的に解釈した時、なんと
「正しく記憶する」という行為に結びつくそうです。
ということは、常に「正しい情報を自他を向上させるために使いこなすことができる」ということ
ですもんね。だとすると、何を記憶しているか・・という記憶の質の問題がでてきますよね。
それで、ひとつ気づいたことが「小学校・校歌」なのですが。
自慢とかではなくて、小学3年で転校した小学校の校歌が大変立派過ぎて、当時の子供達
には今ひとつ理解しがたい詩でしたが、メロディーとともにこの年になってもスラスラと
口ずさむことができるお陰で、今頃その校歌に込められた先人の思いを有難く頂戴できる
ようになりました・・という、体験でございます。
もしや、先輩・後輩のかたが見てくださるかも・・・・と、覚えているままに歌ってみます。
間違ってたら、ご連絡お待ちしています。
之を 誠に おおしたつ~、
教えの庭の 若草は~
天と人との 麗しき~、
道の間に間に 茂るなり~。
生い立つ庭の 若草は~、
おのが様々 芳しき~
花咲き 匂い 誠ある~、
実をこそ結べ 歳の覇に~。
(誠之小学校校歌・開校150年目)