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日本舞踊『鷺娘』 と バレエ『瀕死の白鳥』 の関係性 ~表現の東西融合~

坂東玉三郎さんの日本舞踊『鷺娘』の”さわり”部分は、
深々と降る雪景色のなかで踊られる”鷺の精”の姿に
”地唄舞のような気品”と”能のような幽玄性”が溶け合って、幾度みてもため息が出ます。

繰り返し見ていた『鷺娘』ですが、その振り付けについては
なにも知りません・・・早速Wikiで引いてみました。

そこで、3つほど興味深い話題を見つけました。


1)3つの『鷺娘』 ~現代の原型~
『鷺娘』と呼ばれる舞踊の原型は、舞踊史に3種類あるそうです。

その2番目が江戸末期、文化10年(1813年)3月中村座・三代目坂東三津五郎が
長唄と常磐津の掛合いで踊ったもの。
その後いったん途絶えて、明治19年(1886年)の新富座・九代目市川團十郎が
初代花柳壽輔の振付けで復活し、のちに明治25年(1892年)の歌舞伎座・『鷺娘』が
現行演出の基礎となっているのだそうです。


2)鷺娘の最後の演出の変化
もともとの最後の演出は、見得をするだけだったり、宙を飛び上手の方へと姿を消す演出で、
恋に身を焦がして”死ぬ”という演出はなかったようです。

それが・・・・ 八代目坂東三津五郎によれば、大正以降に『瀕死の白鳥』の影響を受けて、
鷺娘が最後のほうで息絶えるような表現をするようになった
・・・そうです。


そういえば、”日本バレエの産みの親”とよべるバレリーナのアンナ・パブロワが来日したのは、
1922年 (大正11年) です。
1907年にM・フォーキンが彼女のために振付た小品 『瀕死の白鳥』は、
当時アンナ・パブロワの代名詞になっていました。
日本全国8都市で行われた訪日公演では、当然『瀕死の白鳥』が踊られ、
多くの観客の心に深く染みていったことでしょう。

その来日公演『瀕死の白鳥』の観客の中に、『鷺娘』の振り付けを
書き換えた人がいたことは、私にとって何か”ご縁”のように思える出来事です。


今、『鷺娘』が世界中の人々の心をとらえるのは、玉三郎さんの舞踊そのものの力と、
この”鷺の最期”のドラマチックな演出によるところが大きいのではないでしょうか?

どんな伝統芸能も、常に進化し、完成への成長を続けているのだと思いました。


3)”鷺の精から娘に変化”の順序
現行の演出は、まず冬景色の舞台面に鷺の精が現れる・・・

ところが、歌舞伎での動物の扱いは、たいていはまず人間の姿となって舞台に現れ、
それがのちに動物の正体を現わすというパターンなのだそうです。

ですから、動物(鷺)の姿で舞台上に現れ、あとで人の姿になるというのは”逆パターン”で、
さらに・・・「鷺(または鳥から)人間になる」という舞台例は『鷺娘』以前には無いといわれており
当時の菊之丞をはじめとする関係者がどこからこの発想を得たのかは不明である。・・・と
書かれていました。

2)の最後の演出は『瀕死の白鳥』=大正時代の東西文化交流がきっかけでしたが、
『白鳥の湖』は江戸末期には未だありませんね。

鷺の精の姿が、やがて生き生きとした町娘の姿に変化していく演出は、
とてもオリジナルな演出だったのですね!


坂東玉三郎:『鷺娘』 始まり”鷺の精”部分 

by rolferK | 2015-04-23 03:43 | 舞踏・身体表現

主婦からRolferとして人生再建して18年経過。からだのこと・・そして、マイペースに思いつくまま・・。


by rolferK
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