2006年 05月 05日
「老いる」ことの効用~kuriさんのブログ「闘うひと」によせて
今は病気を抱えた身でも、身体や意識は「元気だった頃の記憶」をしっかり憶えています。
折にふれて、口をついて出てくる言葉は「情けない・・・・・」。
昔の自分と、今の自分、ついつい比べてしまうんですね。
身体がしんどいと、気持ちもネガティブに、後ろ向きになってしまって。
身体の中だけでなく、意識の中でも闘ってるんですね、今ある自分自身と。
その身体は本当に壊れやすくて、触るにもすごく気を遣います。
赤ちゃんのぽよぽよした壊れやすさとは全く異質の、陰とひだが無数にある、風が吹けば跡形もなく消えてしまいそうな、乾いた壊れやすさ。
その入れ物も、中身も、わずかの意思の力と周りの空気とで、かろうじて均衡を保っているように思えます。
過去と現在との落差、行き場のない閉塞感、そして恐怖・・・・・
これらのものと、今、闘っているのは、他でもない当の本人なのです。
亡くなった義父も実父も・・そして現在進行形で老いていく義母も・・思いは同じです。
そして、ツイこの3年ほど前の私も同じ思いの中で、自分の身体的な不自由さを受け止めきれずに、惨めな未来に慄いていました。
けれども、こうしてRolferとして多くの学びをいただくことができてみると・・・之までとは全く違った感じ方・見方・考え方が自然に浮かんでくることが、とても有難く思えます。
少なくともこの地球の上にあることには、全て「効用」という側面が備わっているんですね!
「老いる」ことにも例外なく「効用」はあるのです。ただそれが、立脚点を180度変えたときに現れるところに「発想の転換」を必要とするのですけれど・・・。
人生を有限な時間の枠どりから解放して、無限の連続性(転生輪廻)の中に戻してみると・・・本当に「老いる」ことの必要性が見えてくるから不思議です。
そして、それは「受容」というプロセスによってのみ「効用」である側面をより大きくすることができる・・のですね~。
人間はいつも2通りの「拒絶」の仕方をしますよね。
自律神経系で言うなら、一つは交感神経型の「闘争か逃走かの反応」、そしてもう一つは副交感神経型の「虚無虚脱の反応」。ふたつとも、現実の自己をうけいれることが出来ない時に無意識にみせる人間の反応です。
これが成長期の子供なら、体力があれば「非行」・体力が不足してれば「病気」として現れルンでしょうね。
この世に「生」を始めた者である以上、「死」は音も無く確実に正確に近づいているのに、何故忽然と現れたように錯覚しては恐れてしまうのでしょう・・・。
だから「死」を「受容」するために「老いる」必要があるのだろうと思えるのです。
知ってしまった者は「受容」によって、初めて「今を生きる」ことに専心できるのだと思うのです。
「もう長くないから・・」とため息をつく人にも、死の瞬間まで「今」はあり続けます。
それが10年や20年のことだってあるのでしょうから・・。
もしもっともっと若い時期に、生命の輝きの最中にこの「受容」ができるなら・・・きっと、「老いる」ことは「豊かな冬を迎える」ことになるのだろうと信じています。
なぜなら、冬のための備えを十分にする時間を持つことができるからです。
私も晩秋に入りました。そしてこれからこそ最も実り多い時期だろうと予感しています。