2006年 11月 03日
プライス・コレクション~伊藤若冲と江戸絵画展
同日のセッションが複数キャンセルになり、ポっと時間が空きました。
Rolfingセッションで得られる喜びはとても大きく・深いものですが、
京都で開催されている(11月5日まで)「プライス・コレクション
~伊藤若冲と江戸絵画展」にいきたい・・・・・と願っていたのです。
早速、娘を誘って京都・近代美術館(三条・岡崎公園内)にいってきました。
平日とはいえ、秋の京都はどことなく”モミジ”を求めてか・・・人の多いように感じます。
「伊藤若冲」をいつごろ知ったのか・・記憶にはありませんが、そう昔の事では
無いはずです。
子供の頃から絵画が好きで、沢山の美術館や展覧会に出かけることのできる
環境にも恵まれていましたが、「若冲」の名を聞いた記憶がありません。
それなのに、いつの間にか・・・是非”観たい”と思っていたのは、
豊かな情報のお陰でしょう。
”若冲”は京都・錦市場の青物問屋の長男・・・といっても、当時の”問屋”は
市場の場所代を管理するような立場だったようですから、八百屋ではないのです。
長じて、それらの仕事を弟に譲ると画業に専念したそうです。
それからの彼の生き様に強く惹かれます。
徹底した「写実」への信念が、様々なエピソードを残していますが、
”鶏”を描くために、何十羽という鶏を庭先で飼っていた話は有名です。
そういえば、鏑木清隆も心に留まった猫を借り受けてまで共に暮らして「猫」を
描いていますし、孔雀や雉などを飼育したという画家の話は幾度か聞いたことが
あります。
彫刻家では「連獅子」を彫るために、モデルの歌舞伎役者の衣装をとって
その肉体のありようを「写実」した話もあります。
いずれも画家や彫刻家が見ようとしたものは、その表面の姿ではなく、
そのものの「存在から生まれる表現」を喝破しようとしているのでしょう。
そうした「存在から生まれる表現」を自らの感覚に染ませてしまえば、
そこに現実の存在がいなくとも、そして現実にそのような姿を現さなくとも
「心の欲するところに従いて、律を越えず」の自由な創造性を謳歌するに至るのでしょう。
少なくとも若冲は、仏教で言うところの「観自在」の世界を「本質を喝破する観察眼」に
よって垣間見ようとしていたようにも思います。
極彩色で密に描きこまれた作品の印象がとても強かっただけに、
若冲の水墨画やノビノビとしたデッサンやクロッキーのような趣のある墨一色の作品は
かえって心に深く残ります。
例えば「鶴」の姿が、たった一瞬の若冲の筆から「生まれる」その瞬間に
リアルタイムで立ち会っているような・・・・そんなときめきを感じるのです。
そして「芭蕉」の前に立ったとき、芭蕉の描かれている掛け軸の向こうに南洋の陽射しの
明るさや暖かさを確かに感じていました。
奄美の自然を描いた画家・田中一村の作品がもつ陽光と同じ・・・・・そんな明るさでした。
芭蕉という存在自体が、自らの生まれ育つ「環境」をも若冲に描かせたのだと、感じています。
ロルフ・ムーブメントがいつも働きかけようとする「自己存在」の世界が、
形を経由して「描かれた」ものなのだと、妙に納得して帰宅しました。
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ブログにリンクしてくださっている、KASUMIさん、M岡さん。
私も若冲展に間に合いました!
国立博物館の「京焼き展」で、乾山の焼き物も堪能してきました!!
ところで、プライス・コレクションの一双の「紅梅・白梅図屏風」(作者不詳)を
覚えていらっしゃいますか?
あの前に立つと、なんとも穏やかで・華やいだ初春の心もちになるのが嬉しくて。
あれなら、お家にもって帰ってもいいな~~~と思いました。